今日は色々な事が最悪でした。
まず、卒制のゼミが今日から。
だるかった。
その割には、真面目に相談のってもらおうと思ってたのに、先生ら急がし過ぎて無理だった。
jerkブレインめっ。


つーか、卒業制作“展”ってなぜ出すもんなんですか??
去年は、出さなくても出してもどっちでもいいよ、きっと。って感じに言ってたくせに、今年に入って意見を変えるおっさん。
しかも、絶対出すものだからって感じで言われるし、ありえん。
最初からそれを聞いてたら、やめてました、学校。
去年言えよ、それ。
適当にだしときゃ良いんなら、別に出さなくても良いだろ、卒展については。


兄曰く、おっさんは爺になるにつれて頑固になっていくらしいです。爺めっ、頼むからもうちょっと冷静に話ができないのか?
何が腹が立ったって、なんでてめぇらの価値観に合わせなきゃいけねぇんだよってこと。
他人と同じエゴを持たなきゃいけないのか?


こっちは卒業制作を作るけど展示は出したくないって提案をしているのではなくて、展示する事は精神的に不可能だから助言がほしいって言ったら通じたのかな?


老子はね、その無欲さ故に何か良い事があっても周りの人と同じようには喜べない、春が来ても笑えないって言ってたんだ。そんな心の持ち主は、おろかだと、人と同じ価値観を共有できない自分は愚かだと言ってた。
人と価値観を共有できない自分が愚かなら、せめてそれを隠しておける懸命さが欲しい。
その懸命さがこれほど無いと分かってたら、やっぱ学校を去るべきだったな。
価値観の共有を迫られる事が、どれほど苦痛かもう二度と味わいたくないと思ってたのに、また学校は新学期です。


William Blakeの『Songs of Innocence and Experience』って本のタイトルを「無心の歌、有心の歌」って訳した先人がいたけど、なんか好きだ。
その詩のなかのひとつ、the Flyを知っていても、その詩がsong of experienceだと知っていても、その価値観は謎なんだろうか?
その詩はこう終わる。
「では わたしは
 しあわせな蠅だ
 生きていようと
 死んでいようと」


最近こういう事を考える時に、必ず最後に付け加えて思いだす言葉が憲法の中にある。
「幸福追求権」
魔法の言葉だと思う。基本的人権のもっと根本を定義する為に誰かが書き加えたこの言葉によって、当たり前の人権が自分の手元にあるってことを不思議に思う。
こんなもの要らないとさえ思えるのに、この言葉を思いださなきゃ自分の存在意義すら見いだせない。
幸福追求権の価値を自分という人間には持つ権利が無いと思って生きる愚かさより、幸福追求権をあたりまえの権利だと思って生きている人間の方が愚かだと思う。