バナナケーキを焼いた。誕生日だからね、夜中に一人バナナを潰して、バターを煉って、食いたいもんを作った。
その前に晩飯には、親父が貰ってきた辛口のワインにあうような、麻婆豆腐を作り、サーモンサラダを作る。
なぜか、実家に居るのに、飯を作らされる日々。
だるいね。


結局、こうなんだよね、良い用に使われるんだよ、どこにいても。
生憎、それが楽しめる程、人生ってのを楽しんでないんでね、ごめんだけど、結局どこも糞だな。
例えばさ、そんな糞みたいな何処かに居なきゃいけないって事になってるなら、せめて楽しい事がある場所にすればって、何処かを選べるんだったら、そう考えてみるとね、よーく考えてみてもね、どこでも良いんだよ。結局、どこも変わらないわけ。
楽しい事なんていくらでもある。
学校に居れば、好きなだけ時間が許す限り写真を出来る訳で、その提案は分からなくもない。でも実家に居れば好きな時にドラムを叩ける。それに、知ってる?実家にも引き延ばし機あるんだよね、実は。今のところ、家と外をわける為に、使える状態にはしてないけどね。そうまでして、外に出る意識をしないと、ずっと何もしないからね。
なんだろうな、引きこもりともまた違う。
最近、自分って人間がどこに籠ろうとしているのか、どこで籠城して何を守ってるのかが見えない。
たぶん、人から見たら、兵糧攻めにあって中から崩れる原因を作りまくってるように思えるんだろうな。
守るべきルールを無視してまで、学校に残った苦痛の1年、生き延びてみせた1年、また一つ年を重ねてみせた1年。
後何度この忌まわしい気分を味わう為に、1年を積み上げてかなきゃならないんだろうな?


時々、なぜリストカっターは手首なんて切るんだ?って思う。首を切れよ、死にたいなら、手首を落とせよ、死にたいなら。そう思う。
縦に血管を裂いた遺体と、大量の薬で眠るように死ぬ遺体と、どちらが遺族を苦しめるのか?そんな事を考えながら、それでも出来る限り冷静に過ごしてきたつもりだ。
でも最近、冷静すぎる自分が怖い。
飯を作って包丁で鶏肉を切る時、どれぐらいの強さと角度でこの刃物を引くと生身の肉が切れるのかを冷静に観察する。
何に応用するつもりもないけど、これが生きてる奴だったら、どれほど刃が入った瞬間に肉は緊張して固まるか、その固さも想像する。
肉を叩いて柔らかく解しながら、この冷静な感情で自分が死ぬ姿を目に焼き付けれるのなら、多少綺麗ではない死体となってもかまわないと思う奇妙な瞬間があった。
もし、この世界の誰に対しても義理を感じなくなったら、きっとそれを鏡の前で実行するだろうと思う。
死に対する恐怖心が消せるなら、死ぬ瞬間を見つめるのだ。
けれどきっと、実際は、気を失って仰向けに倒れ虚ろに蛍光灯を眺めながら、意識が遠のいて二度と戻ってくる事は無いだけだ。
血液が流れ出て、脳へ酸素を運べなくなる前に、痛みで見たものを判断する事など出来なくなる。
結局は、自分に訪れる死も、他人に訪れる死も、たいして違わない。
死を何度見続けても、その最後に自分の死を見るチャンスは来ない。
その事を不公平だと考えてはいけない。
辿り付けない瞬間というものは絶対にある。
この世界で、その瞬間を見ようとはしない瞬間をどれだけ多く持てるかが重要だ。
この世界で。
忘却の瞬間を奪い取っていく世界は、恨むべき相手では無いと言う。
その瞬間へと追い込まれて行く人間に対して、恨んではくれるなと世界は言う。
恨むよ。
恨む。
復讐なんてしないけどさ、生まれてきた日が来る度に生まれてきた事を後悔する、そんな人生を歩ませる世界を恨む。
復讐なんて許されないけどさ、そんな人生を歩み始めた自分自身を生涯許さずに生きる。
一生涯、恨む。