今日は喪失感と言う言葉の意味が何となく解った。
漢字通りの意味なようでいてそれは、失う前の光の強さに呑まれて見えない影を指すのだと思った。
後ろの人には見える影が、自分では見えないんだ。
誰にでもある光が、自分の足下に影をおとす。
その光と影だけを目で追ってるのが、いまの自分の視線なのだとしたら、自分の写真は確かに喪失感からできていると思う。
その喪失感の出所を尋ねてくるガッコの先生が満足する答えを自分が持っているとは思えない。
自分の視線が追っているのは、あくまで他人の光と影だ。
なぜそんなモノを追うのかを、自分の目に尋ねてみる。
すると今にも泣きそうな色をして、知ってどうすると怒鳴ってくる。そういわれたら、しょうがない、目を閉じて眠るしか今日はもうする事が無い。


久々に本を買った。何故今まで、本屋で見かけても手に取らなかったのか解らないけど、主人公が写真をやるってのが、気にくわなかったのかも知れない。それと親友が死ぬのと、喪失感の中で生きているジャンキーなのと、とにかく設定がベタ過ぎて気にくわなかったんだと思う。
でも、今日は初めてちゃんと立ち読みしてみたら、とても好きなタイプの小説だったので、買った。
ありきたりな感動作かと思っていたら、違った。喪失感から救われる話しでも、誰かを救える話でもない。
ただ飛ぶように走り抜けて逃げ去っていく話しだった。
ただ、向き合うまでも無く事実はココにあるんだって事をよく理解した物の見方は、傍観者になろうとする写真ジャンキー独特だと思った。傍観者でいる事をやめた後も、写真と一緒に街を出て行く決意をできる主人公をみて、少し羨ましく思った。


自分が傍観者であるために写真をしている事に気がついてから凄く長い時間が経った。傍観者でいる事で、自分は何から自分を守ろうとしていたのだろう?結局傍観者でいる事に嫌気が差し、真実に向き合っても、最初から逃げ続けた事実を今更受け入れる事が出来ないと拒絶した。拒絶された事実と悲しみはずっとこちらを見続ける。
傍観者の目に写る物事もまた真実なのかも知れないと、読み終えた後に感じた。傍観者でいつづけたくはないけど、事実を受け入れる余裕もない自分には、これからどうなるのかさっぱり解らない。
傍観者でいる事で怒りや悲しみを押さえ込まなければやってこれなかったほど、自分の人生は苦痛に満ちていたのだろうか?
それならばこのまま傍観者でいつづければ、勝手に時間が流れてくれると思う。勝手に世界が、破滅に進んでいってくれると思う。自分が何を望もうが、傍観者の意見は宙に消えるんだと思う。